เข้าสู่ระบบ窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。
ここは。
ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。
「……エマ?」
声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。
高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。
ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。
「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」
エマ。
栗色の髪をきっちりまとめた、小柄な侍女。侯爵家へ嫁ぐ時には「手のかからない侍女だけを連れていけ」と継母に言われ、連れていくことを許されなかった娘だ。泣きながら見送ってくれたその顔を、リリアーナはよく覚えている。今目の前にいるのは、まだ少し幼さの残る、十九か二十そこそこのエマだった。
「……何日?」
「え?」 「今日は、何日……?」問いながら、指先が震えた。エマは不思議そうに瞬きをして、それでもすぐに答える。
「三月の十日でございます」
三月十日。
婚約調印の、四日前。
その数字が頭の中で形を結んだ瞬間、胃の奥がひっくり返るように冷えた。リリアーナは反射的に身を起こし、口元を押さえる。吐き気がこみ上げる。だが吐くものはない。空の胃がきしきしと縮むばかりだった。
「お、お嬢様?」
「……水を」 「はい、すぐに」エマが差し出したグラスを受け取ろうとして、リリアーナは自分の手を見た。
白い。
細い。
指の関節はまだ柔らかく、節くれ立っていない。侯爵夫人として社交に、帳簿に、書簡に追われていた頃よりも、ずっと若い手だった。右手の人差し指の付け根には、前世の終盤、ペンを握りすぎてできた硬い皮膚がない。左の薬指には、金の結婚指輪の痕すらない。
水を飲む。冷たい。透明で、ただの水だ。それだけなのに、喉を通るたびに涙が出そうになった。血ではない。薬草を煮出した苦い鎮静剤でもない。誰かの顔色を窺いながら飲み下す食後のお茶でもない。ただの水が、こんなにやさしいなんて。
「顔色が悪うございます。奥様をお呼びいたしましょうか」
「……いいえ」ほとんど反射でそう答えたせいで、声にわずかな鋭さが混じった。エマが驚いたように目を丸くする。リリアーナは息を整え、少しだけ首を振った。
「ごめんなさい。大丈夫よ。少し……嫌な夢を見ただけ」
「本当に?」 「ええ」嘘だった。
夢ではない。あれは確かに自分の人生だった。そして、その人生の果てで、自分は死んだ。
なのに今、戻っている。
なぜ、と考える余裕はまだなかった。奇跡だの神の気まぐれだのを信じるほど、リリアーナは素直ではない。ただ、事実だけがあった。自分は死に、そして婚約前の朝に戻ってきた。そのことだけは揺るがない。
「窓を、少しだけ開けてくれる?」
エマが頷き、窓辺へ向かう。留め金が外れる小さな金属音。木枠が軋む音。細く開いた隙間から、朝の空気が流れ込んできた。まだひやりとしているが、冬の切っ先ほど鋭くはない。土の匂い。遠くで小鳥が鳴いている。庭師が砂利を踏む音もする。生きている音だ、とリリアーナは思った。
前世の最後、彼女が死んだのは初冬だった。薔薇はもうほとんど散り、庭は黒い土を晒していた。空気は薄く、刺すように冷たかった。今ここに流れている空気は、それとは違う。春になる前の、まだ少し頼りない朝の匂いだ。
戻ったのだ。
本当に。
その認識がじわじわと現実味を帯びるほど、胸の奥がざわついた。嬉しさは、なかった。救われた、という安堵も、すぐには湧かなかった。先に来たのは、恐怖だった。
また、あそこへ行くの?
また、あの家へ?
また、あの人の妻として、十年を?
侯爵家の長い廊下。磨き抜かれた黒い床。音のしない食卓。義母の香水のきつい匂い。社交界の薄い笑顔の下に隠された侮蔑。笑うたびに頬が引き攣っていた自分。セドリックの執務室の扉の前で、何度も言葉を飲み込んだ夜。
頭の中で、記憶が次々に開いていく。
結婚初夜、彼は静かに告げたのだ。
『形式上の婚姻だ。必要な敬意は払う』
必要な敬意。
それは間違いなく守られた。衣食住に困ることはなかった。侮辱されれば表向きは制した。病に倒れれば医師は呼ばれた。侯爵夫人としての地位も、礼儀も、整えられた贅沢も与えられた。
だが、あたたかさは一度もなかった。
必要な敬意と、愛情は違う。
その違いを知るまでに、彼女はあまりにも長い時間を使ってしまった。
リリアーナはぎゅっとグラスを握りしめた。冷えた硝子が掌に食い込む。
寄進は本来、侯爵家の名でまとまって出す。 こんなに小口で分ける意味がない。 分けるなら、分けるだけの理由がいる。 だが理由の記載がない。「おかしい……」 思わず、唇の裏で呟く。 隣の棚で別の書類を確かめていたローレンスが、視線だけこちらへ向けた。「何か」 「まだ断定はできません」 「承知しております」 老執事はそれ以上何も言わない。 この人は、本当に必要な時しか口を挟まない。 それが今はありがたかった。 リリアーナは頁を戻り、同じ支出先が過去にどう処理されていたかを追い始めた。 一月前。 二月前。 さらに前年同月。 筆跡。 承認印。 附属の控え書類。 そこまでたどった時、初めて、線が見えた。 寄進先として記されている婦人会の名前と、実際の受領控えの名義が違う。 表向きは「南区婦人慈善組合」。 だが、添付されている簡易領収の宛先は「ローザ・ベルメル婦人」。 個人名だ。 しかもリリアーナは、その名前に覚えがあった。 前世、義母の午後の茶会でよく見た女だ。 年の頃は四十代半ば。 夫は没落気味の男爵。 だが本人は顔が広く、王都の婦人会を幾つも渡り歩き、寄進と紹介と小さな縁談を仲立ちしては自分の取り分を抜く、そういう女だった。アグネスは彼女を「世話好きの良い人」と言っていた。だがその“世話”の向かう先が、いつも義母に都合のいい家ばかりだったことを、リリアーナはうっすら覚えている。 次の紙。 その次。 名前は違うが、筆跡の癖が似ている。 同じ女の代筆か、同じ書記だ。 そして、さらに奥の整理箱からローレンスが取り出してきた古い補助簿を見た瞬間、完全に繋がった。 婦人会寄進金の一部が、別名義で服飾商会へ渡っている。 その服飾商会は、アグネス専用の仕立てを請ける店。 帳簿上は「支援衣類費」。 だが、品目の中にあるのは、明らかに孤児へ配るようなものではない。 薄手の絹手袋。 夜会用のレース。 装飾リボン。 色数の多い刺繍糸。 女たちの社交衣装を整えるための品ばかりだ。 しかも、その支払いの端数がもう一つ別の口へ流れている。 小さな香油商。 そこも、アグネスが贔屓にしていた店だった。 慈善の名目で金を出し、婦人会を経由したように見せ、
それを見つけたのは、昼と夕方のあいだの、光がいちばん薄くなる時間だった。 空は晴れていなかった。雨でもない。春の入り口に特有の、どこまでも白く曇った空が、侯爵邸の高い窓の向こうに広がっている。庭の枝先は細く揺れ、まだ固い蕾を抱えたまま、風のたびにわずかに鳴った。暖炉には火が入っていたが、大きく燃えているわけではない。赤く沈んだ炭が、ときおり小さくはぜる音だけが、静かな部屋に短く響いている。 侯爵邸の南側にある小さな会計室は、客を通すような部屋ではなかった。飾り気のない棚、背の低い書類箱、鍵のついた小さな整理箪笥、窓際には筆記台と、帳簿をひろげるための広めの机。花はない。香油の匂いもない。代わりにあるのは、紙とインクと、乾いた革表紙の匂いだけだ。 リリアーナはその机の前に座り、帳簿の頁を一枚ずつめくっていた。 表向きの理由は、共闘の一環だった。 侯爵家内部の金の流れ。 襲撃に繋がる不自然な支出。 内通者へ渡っている可能性のある小口の金。 そういうものを洗うために、セドリックが「見てほしい」と言ったのだ。 最初は断るつもりだった。 侯爵家の帳簿など、いくら今の自分が前世を知り、彼と同じ夢を見ているからといって、簡単に触れていいものではない。家の奥を覗くことになるし、何より、自分はまだ侯爵夫人ではない。ならないとも言っている。そこまで踏み込む筋合いがあるのか、と、最初は本当にそう思った。 だがセドリックは珍しく理詰めではなく、ただ静かに言った。「君のほうが気づくものがある」 それだけだった。 気づくもの。 その言い方はひどく曖昧で、だからこそ引っかかった。 自分の目で見たもの。 前世で受けた違和感。 義母の手つき。 実家の匂い。 帳簿の上では見落とされても、生活の中で不自然だったもの。 そういう“感覚の記憶”を、彼は今、必要としているのだと分かった。 だから来た。 侯爵家のためではない。 彼のためだけでもない。 少なくとも最初は、自分が生き延びるために、見ておいたほうがいいと思ったからだ。 それが、今は別の意味を持ち始めていることを、リリアーナはまだ言葉にしていなかった。 頁をめくる。 過去数か月分の小口支出。 厨房の増額。 馬具の買い替え。 客用ワインの補充。 庭師への季
「怖いのよ」 気づけば、ぽつりと口にしていた。 エマが動きを止める。 紅茶を注ぐ途中の手がわずかに止まり、それからゆっくり続きを注いだ。 聞いている。 でも急かさない。 その沈黙に甘えて、リリアーナはもう少しだけ言葉を続けた。「前みたいに冷たかったら」 「……」 「まだ、怒っていられるでしょう」 「はい」 「でも今は、細かいことばかり見てくる」 「はい」 「食べたかどうかも」 「はい」 「寒くないかも」 「はい」 「私がどうしたいかまで」 「……」 「そんなの、慣れてしまうじゃない」 最後の一言は、ほとんど独り言に近かった。 慣れてしまう。 それがどれだけ危険なことか、自分だけが知っている。 優しさは、最初は異物だ。 でも毎日少しずつ差し出されると、体がそれを当然のように覚え始める。 今日も温度がちょうどいい。 今日も食べられるものが出てくる。 今日も寒さへ先に気づいてくれる。 今日も、自分の意見を先に聞く。 そういう日々に慣れたあとで、それが失われたら。 たぶん、もう立てない。 前世の自分は、愛されていないと思っていたから耐えられたところもあった。 求めなければいい。 期待しなければいい。 そう自分へ言い聞かせることで、ぎりぎりまで立っていられた。 今度は違う。 期待してしまう。 信じてしまうかもしれない。 そうなってから失うのは、きっともっとひどい。「今度こそ信じて」 「……」 「また失ったら、どうしたらいいのか分からない」 そこまで言ってから、リリアーナは口をつぐんだ。 部屋の中が静かになる。 窓の外では、夕方の風が枝先を揺らし、日が落ちかけた白い光が少しずつ青みを増していた。 エマはしばらく何も言わなかった。 それから、カップを主人の前へ置き、やわらかく言う。「慣れてしまう前に、怖いと仰ってください」 「……え?」 「侯爵様に」 「そんな」 「お嬢様は、前は何も言えなかったのでしょう」 「……」 「なら今度は、怖いことを怖いまま伝えればよろしいのです」 「……」 それは簡単そうで、ひどく難しいことだった。 怖い。 慣れてしまいそうで。 優しさが当たり前になりそうで。 今度こそ信じそうで。 そして
「私は遅らせてもいいと思う」 彼はそう言ってから、一拍置いた。「だが、君はどうしたい」 リリアーナはその時、本当に言葉が出なかった。 どうしたい。 そんなふうに訊かれること自体が、久しぶりだったから。 父も継母も、たいていは「どうあるべきか」を先に言う。 伯爵家にとってどうか。 外聞としてどうか。 令嬢としてどうか。 そういう“あるべき”の中でしか、自分の希望を問われたことがない。 だから「どうしたい」とだけ聞かれると、逆に空白が広がる。 自分の本音を、そのまま口にしていいのだと、すぐには信じられない。「……遅らせるのは、少し怖いわ」 「どうして」 「待つ時間が伸びるでしょう」 「……」 「狙われるかもしれないって分かったあとで、“その日”が先に延びるのは、少しつらい」 そう言ってから、自分で少し驚いた。 こんな弱音を、そのまま口にすると思わなかったからだ。 だがセドリックは「分かった」とだけ言い、そこで会話を終わらせなかった。「では予定通りにする」 「……」 「ただし護衛を増やす。君が待つ時間をこれ以上長く感じない形で」 「……」 その時、胸のどこかが、ひどく静かに揺れた。 以前のように「危険だから遅らせる」で終わらせない。 かといって、こちらの恐れだけを優先して判断を雑にもしない。 意見を聞いたうえで、全体を組み直してくる。 そういう優しさは、派手ではない。 でも、じわじわと効く。 だから怖い。 こんなふうに、少しずつ意見を聞かれ、少しずつ気遣われ、少しずつ体のことを見てもらうことに慣れてしまったら、どうなるのだろう。 今度こそ信じてしまうかもしれない。 今度こそ、この人は変わったのだと思ってしまうかもしれない。 そして、もしまた失ったら。 失ったら、どうするの。 前世の終わりよりもっとひどいかもしれない。 少なくとも、今の自分はもう「愛されていない」と思い込むことで自分を守れない。 知ってしまったから。 あの人が最初から愛していたことも、守るつもりで沈黙したことも、同じ悪夢を見てきたことも。 知ってしまったうえで、また失うのは、きっと前世の何倍も痛い。 * 夕方、侯爵家の書類が届いた。 西の薬草院へ向かうまでの護衛配置表、宿場の変更
寒さもそうだった。 今年の春は遅い。日差しだけは白くやわらかくなっているのに、風の底にまだ冬が残っている。朝夕は特に冷え、庭へ出るだけで指先がじんと冷たくなる。侯爵邸の東庭の東屋で、共闘の話をしたあの日以来、リリアーナは風の匂いに少し敏感になっていた。外の空気は息がしやすい。だが、長く居れば体温を奪う。「それでは足りない」 ある日、東屋で書類を広げていた時、セドリックはそう言った。 西へ向かう際の関所用の通行証と、薬草院での滞在名目の文面を、最終的に侯爵家側で確認してもらう必要があった。伯爵家の書斎で父と向き合うより、外の東屋のほうがましだと、リリアーナが自分で言ったのだ。エマがショールを肩へかけ、炭火鉢も用意した。だから十分だと思っていた。 けれど、セドリックは書類より先に、そのショールの端へ目を止めた。「それでは足りない」 「足りるわ」 「手が冷えている」 「元からよ」 「元からならなおさらだ」 「……」 その言い方が、あまりにも当然みたいで、リリアーナは一瞬だけ返す言葉を失った。 前世では、冷えた手は自分で温めるものだった。 暖炉へ近づく。 湯飲みを抱える。 膝掛けを増やす。 そういう小さな工夫を、誰に言われるでもなく自分で覚えた。 今は違う。 彼が当たり前のように気づく。 そして、当たり前のように指摘する。 ほどなくして、侯爵邸の年嵩の侍女がもう一枚厚手の膝掛けを持ってきた。色は落ち着いた青灰で、季節の花も飾り糸もない、実用品としての布だ。だがその素っ気なさが、逆に気を遣わせない。「勝手ね」 「寒いのは事実だ」 「そういうところ」 「何だ」 「以前は、こういうこと、一度も言わなかったでしょう」 「……」 その問いに、セドリックは一拍だけ沈黙した。 そして、ごく低く言った。「以前は、言う資格がないと思っていた」 「今はあると思うの?」 「思わない」 「じゃあどうして」 「……黙って見ているほうが、もっと悪いと分かったからだ」 その答えが、喉の奥に細い棘のように残った。 優しい。 でも、簡単に受け取れない。 受け取ってしまえば、昔の冷たさまで少しだけ説明がつくような気がしてしまうから。 説明がつくことと、許せることは違う。 そう自分へ何度も言い聞かせなければな
それは、大きな出来事ではなかった。 花束のように目立つものでも、夜会の真ん中で腕を取られるような劇的なものでもない。誰が見ても分かる「特別」ではなく、見落とそうと思えばいくらでも見落とせるような、小さな変化ばかりだった。 けれど、そういうものほど、気づいてしまうと厄介だった。 朝、部屋へ届くお茶の温度が、以前より少しだけぬるめになった。 最初は偶然だと思った。エマが気を利かせただけかもしれないし、侯爵邸の女医が「胃に負担をかけないように」と言ったからかもしれない。だが二日、三日と続くうちに、それが偶然ではないのだと分かった。熱すぎる飲み物を、リリアーナは昔から少し苦手としていた。口をつけるまでに間が要る。前世の食卓では、それを誰も気に留めなかった。冷めるまで待てばいいだけのことだと、自分でもそう思っていたから。 今は違う。 気づけば、出されるお茶は最初から少しだけ温度が落ちている。 温かいが、すぐに飲める温度。 誰かが、気にしている。 食事もそうだった。 以前のセドリックは、リリアーナが食べているかどうかを見ていたのか見ていなかったのか、判然としない時が多かった。前世では、その判然としなさ自体が苦しみだった。見ていても何も言わない。気づいていても触れない。食べられない日も、食卓を立つ背中へ視線が落ちるだけで終わる。 今は違う。 同じ席につく機会があれば、彼はまず料理ではなく、リリアーナの皿を見る。 パンを半分しか取っていない。 スープに口をつける前に、先に水を飲んだ。 肉へナイフを入れたまま、数秒止まった。 そういう小さな兆しを、今の彼は見逃さない。「それは無理に食べなくていい」 ある日の昼、そう言われたのは、肉の香りだけで胃が少し重くなった時だった。 伯爵家と侯爵家の間で、出立の日程を表向きにどう処理するかという話し合いがあり、珍しく同じ卓で昼食を取ることになった。父も継母も、最近の「関係修復らしい」噂を利用したいのか、表向きは以前よりも穏やかな顔を作っている。けれど、その穏やかさの中にある計算の匂いは、今のリリアーナにはもう隠しきれていなかった。 銀の蓋が開かれ、肉の温かい匂いが立った瞬間、胸の奥が少しだけむかついた。昨夜は眠りが浅く、今朝もパンと薄いスープしか入っていない。食べなければいけないと思うほど、
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ