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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません②

ผู้เขียน: なつめ
last update วันที่เผยแพร่: 2026-06-09 14:29:15

 窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。

 ここは。

 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。

「……エマ?」

 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。

 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。

 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。

「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」

 エマ。

 栗色の髪をきっちりまとめた、小柄な侍女。侯爵家へ嫁ぐ時には「手のかからない侍女だけを連れていけ」と継母に言われ、連れていくことを許されなかった娘だ。泣きながら見送ってくれたその顔を、リリアーナはよく覚えている。今目の前にいるのは、まだ少し幼さの残る、十九か二十そこそこのエマだった。

「……何日?」

「え?」

「今日は、何日……?」

 問いながら、指先が震えた。エマは不思議そうに瞬きをして、それでもすぐに答える。

「三月の十日でございます」

 三月十日。

 婚約調印の、四日前。

 その数字が頭の中で形を結んだ瞬間、胃の奥がひっくり返るように冷えた。リリアーナは反射的に身を起こし、口元を押さえる。吐き気がこみ上げる。だが吐くものはない。空の胃がきしきしと縮むばかりだった。

「お、お嬢様?」

「……水を」

「はい、すぐに」

 エマが差し出したグラスを受け取ろうとして、リリアーナは自分の手を見た。

 白い。

 細い。

 指の関節はまだ柔らかく、節くれ立っていない。侯爵夫人として社交に、帳簿に、書簡に追われていた頃よりも、ずっと若い手だった。右手の人差し指の付け根には、前世の終盤、ペンを握りすぎてできた硬い皮膚がない。左の薬指には、金の結婚指輪の痕すらない。

 水を飲む。冷たい。透明で、ただの水だ。それだけなのに、喉を通るたびに涙が出そうになった。血ではない。薬草を煮出した苦い鎮静剤でもない。誰かの顔色を窺いながら飲み下す食後のお茶でもない。ただの水が、こんなにやさしいなんて。

「顔色が悪うございます。奥様をお呼びいたしましょうか」

「……いいえ」

 ほとんど反射でそう答えたせいで、声にわずかな鋭さが混じった。エマが驚いたように目を丸くする。リリアーナは息を整え、少しだけ首を振った。

「ごめんなさい。大丈夫よ。少し……嫌な夢を見ただけ」

「本当に?」

「ええ」

 嘘だった。

 夢ではない。あれは確かに自分の人生だった。そして、その人生の果てで、自分は死んだ。

 なのに今、戻っている。

 なぜ、と考える余裕はまだなかった。奇跡だの神の気まぐれだのを信じるほど、リリアーナは素直ではない。ただ、事実だけがあった。自分は死に、そして婚約前の朝に戻ってきた。そのことだけは揺るがない。

「窓を、少しだけ開けてくれる?」

 エマが頷き、窓辺へ向かう。留め金が外れる小さな金属音。木枠が軋む音。細く開いた隙間から、朝の空気が流れ込んできた。まだひやりとしているが、冬の切っ先ほど鋭くはない。土の匂い。遠くで小鳥が鳴いている。庭師が砂利を踏む音もする。生きている音だ、とリリアーナは思った。

 前世の最後、彼女が死んだのは初冬だった。薔薇はもうほとんど散り、庭は黒い土を晒していた。空気は薄く、刺すように冷たかった。今ここに流れている空気は、それとは違う。春になる前の、まだ少し頼りない朝の匂いだ。

 戻ったのだ。

 本当に。

 その認識がじわじわと現実味を帯びるほど、胸の奥がざわついた。嬉しさは、なかった。救われた、という安堵も、すぐには湧かなかった。先に来たのは、恐怖だった。

 また、あそこへ行くの?

 また、あの家へ?

 また、あの人の妻として、十年を?

 侯爵家の長い廊下。磨き抜かれた黒い床。音のしない食卓。義母の香水のきつい匂い。社交界の薄い笑顔の下に隠された侮蔑。笑うたびに頬が引き攣っていた自分。セドリックの執務室の扉の前で、何度も言葉を飲み込んだ夜。

 頭の中で、記憶が次々に開いていく。

 結婚初夜、彼は静かに告げたのだ。

『形式上の婚姻だ。必要な敬意は払う』

 必要な敬意。

 それは間違いなく守られた。衣食住に困ることはなかった。侮辱されれば表向きは制した。病に倒れれば医師は呼ばれた。侯爵夫人としての地位も、礼儀も、整えられた贅沢も与えられた。

 だが、あたたかさは一度もなかった。

 必要な敬意と、愛情は違う。

 その違いを知るまでに、彼女はあまりにも長い時間を使ってしまった。

 リリアーナはぎゅっとグラスを握りしめた。冷えた硝子が掌に食い込む。

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